京都療病院時代の医学史
明石博高らの努力により、京都の仏教界が中心となって療病院のための資金が集められライプチヒ大学教授会によって選ばれた Junker von Langeggが京都に着任したのが明治5年(1872年)9月7日であり、11月1日より粟田口の青蓮院に京都療病院が開かれる。
明治5年(1872年)11月~明治6年4月
療病院新聞刊行 *一般医家の資料及び参考に供したとの記録がある。
明治6年(1873年)4月~明治7年5月
療病院日講録刊行 *Junker の解剖学講義を渡忠純、真島利民、新宮凉介が筆記したもの、永松東海担当したものもある。
明治6年(1873年)12月には半井澄が庶務取締兼通弁として任に付き、Junkerの通訳をするとともに、着任直後の明治7年1月には京都医事会社(医学会相当)を開設している。
明治7年(1874年)11月
京都療病院治療則 *Junkerの処方並びに治療に関する諸説を通弁山田文友が口述し、これを原元良が筆記したもの。
明治8年(1875年)2月
日講付録として解剖捷覧(手引書)が京都療病院記聞掛より出版
明治8年(1875年)2月に神部文哉が、9月には萩原三圭が療病院管学事として着任。
明治9年(1876年)7月に、日本最初の公立精神病院である〔癲狂院〕が療病院管理のもとに南禅寺内に開設される。
明治9年3月、Junkerが退任。
代わって幕府の医学校、長崎精得館の三代目教諭で、熊本にいたオランダ人のC. G van Mansveltが着任し、長崎での経験に基づいて京都府療病院における医療教育を見直し、予備コース・基礎医学コース・臨床コースからなる8年間の課程を作った。
その結果、明治9年5月には、療病院の初代院長に半井が、編輯掛に神戸が命ぜられた。
明治9年(1876年)10月~明治10年10月
西医雑報(月刊)が創刊 *西洋医学の紹介誌として、創刊。Mansveltが解任された2ケ月後に廃刊となる。
明治9年(1876年)12月
精神病約説が神戸文哉により著される。 *平澤一氏の詳細な調査により、J. R. Reynolds編のA System of Medicine.Vol. II, pp. 6-68, Insanity.by Henry Maudsleyを翻訳したものであり日本で最初の西洋精神医学の訳書であることが明らかにされている。
Mansveltは、教育診療ともにすこぶる熱心につくしたが、オランダ語による講義に終始したこと、知事の往診を契約にないとの理由で拒否したことなども関係したのか、任期を待たずに解任される。解任後は、半井の配慮で大阪府立病院へ転職している。
明治10年8月には、ライプチヒ大学よりHeinrich Botho Scheubeが着任。
Scheubeは、Wunderlich教授の元で助手を勤める。また、東京大学医学部に着任していたErwin von Belz教授の後輩でもある。
Wunderlichは、Das Verhalten der Eigenwaerme in Krankheiten(1868)の著者でもあり、19世紀後半に世界の医学会を風靡した実験医学の旗手の一人で、卓越した臨床家でもあった。患者の体温測定を日常化したことが最大の業績といわれているが、療病院雑誌の報告の中にも熱計表が多用されており、その影響が伺える。
明治11年(1878年)6月
ショイベの常用方鑑(江坂秀三郎訳、神戸文哉校)が刊行 *また、11月には神戸によって『養生訓蒙』が編纂される。
明治12年(1879年)3月~明治14年5月
療病院雑誌が刊行
療病院雑誌の内容
Scheubeはまず日本人の間に貧血が多いことを認め、第1号、第2号(漸進悪性貧血講義)にはじまり、西南戦争の帰還兵の中からコレラが発症しこれが流行すると、第5号に虎列刺病論や第7号にワイマル虎列刺会議の紹介を行い、剖験によって空腸に線虫を認めたことを第8号に報告、第17号には世界最初のマンソン孤虫の報告を、第23号には住血状虫、フィラリア等の報告をしている。
明治12年(1879年)3月~明治13年9月
京都医事会社から医事集談(月刊)が創刊
明治12年4月、Mansveltのつくった学制ではなかなか卒業生が出ないことから、これに一部変更を加えられ、療病院内に医学予備校と修業年限4ヶ年の医学校を設け、同年5月に萩原三圭が初代の校長となる。
また、9月には京都府立医科大学の現在地に京都療病院医学校の公舎が竣工し、粟田口より移転する。
療病院は、明治13年に本建築が完成し、開業式が行われる。しかし、経済的な問題が起こる。
当初療病院の運営は、府民の寄附と治療費による独立採算が可能であったが、建築費に次ぐ医学校の費用の問題が明治12年に始まった府会で問題となった。更に明治14年に槇村正直が京都府知事を止めて東京に移り、北垣国道が知事になるとともに、従来の槇村正直-明石博明ラインによる欧風化路線が見直され、医学教育を日本語で行うこととなった。
明治14年の9月に神戸文哉が大阪医学校へ、萩原三圭が東京へ去り、12月にはScheubeが解雇された。
明治14年5月新宮凉亭が、明治15年猪子止戈之助と斎藤仙也が一等教諭として着任し、京都府立医科大学歴史の第2ページへと移り変わっていく。