京都府医学校時代
明治18年(1885年)4月~明治20年5月
京都医事雑誌発行
明治21年(1888年)1月~明治34年7月
京都医学会雑誌
京都医事雑誌が発行されたことが契機になったのか、明治19年1月”京都療病院内ニ於テ医学会ナル者ヲ創置シ毎月二会ヲ開設シ学術ヲ討論シ実験ヲ談話”することを目的としたが、明治21年1月第1初会において”学術ト実験トヲ問ハス会員諸君ノ論説ヲ編輯”して京都医学雑誌が発行された。
また、明治21年1月の第2回の開会式では猪子が会頭として祝辞を述べている。このとき、副会頭は浅山郁次郎(眼科学教室、副院長)、会員は療病院の医師、開業医、学生など総数は105名であった。
編輯委員には、医学校の教諭が中心となっている。江坂もその後加わっている。また、明治22年からは京都医会、青年医会ができ会員総数は324名にのぼり、明治26年には、391名とピークに達する。雑誌の発行部数も約400部となる。
明治27年(1894年)4月~昭和16年12月
*京都医会及び大日本私立衛生会京都支部が中心になり78名の会員で発足
明治30年の初頭、京都帝国大学が発足され、猪子は医科大学の京都への誘致に奔走し、当初は病院に関しては京都府療病院医学校を使用し、また教員には療病院の豊富な人材を当てる計画をし、誘致に成功している。
そして、猪子は基礎医学関係を新築する五万一千円のみの予算で、病院をも含めて全面的に新築する案に変更し、基礎1千坪、臨床2万坪の敷地を確保した。
予算:建設調度費二十余万、学術用器機等図書購入費二十八万、経常費二十八万円
明治30年(1897年)
京都府医学校の校友会雑誌創刊
京都府医学校校友会の発足
療病院内に出来た京都医学会の青年医会も運動が活発化し、学術部と運動部ができる。
そして、明治27年6月25日には、療病院内において猪子校長の肝入で大運動会が開催されたことより発展し、発足となり、京都府医学校校友会雑誌の創刊となる。
発足当時の規約 構成:院校職員卒業生及び生徒 目的:相互の知識を交換し体力を練り徳義を養い以って、校風を振起し同窓の和親を謀る。
内容:論説、科学、抄録、雑録、文芸作品、会報とされている。
その後、京都府医学校友会雑誌は大学への道のりとともに名前を変え、内容を変化させていく。
明治32年(1899年)7月
京都帝国大学京都医科大学発足
明治32年(1899年)
京都医学図書館創設開館
*明治31年より校友会の一事業としての設立募金で創設される。
明治26-27年をピークに京都府医学会の会員数は減少し、明治34年162号をもって廃刊となった。
また、京都医学会の残務処理にあたった朝井元章助教諭が、京都医学会雑誌の総目録をつくり、京都医学図書館へ寄贈している。
明治36年(1903年)
新しく京都医学会発足
明治37年(1904年)~昭和19年
京都医学雑誌刊行
*京都医学会により刊行される。
京都医学雑誌
学術論文を主体とし、巻末には独文の抄録が掲載され、カラーの図を入れるなど現在の学術雑誌の形態を備えている。
当初は、京都府医学校、京都帝国大学京都医科大学および京都医会の3者により編集されていたが、次第に京都医科大学が中心となっていった。
大正12年(1923年)1月
学術集談会発足
大正12年(1923年)4月
学術集談会発会式記念号として、京都府立医科大学学友会雑誌(第93号)が発行される。
大正12年(1923年)5月
学位授与権が承認される。
大正12年(1923年)9月
京都府立医科大学学友会雑誌改題『京都府立医科大学雑誌』となる。
改題された際、学生中心とした記事は京都府立医科大学学友会、学内付録の形で発行されることとなる。
大正11年~昭和元年までの間、6号まで発行され、その後昭和2年~京都府立医科大時報と名前を変え、昭和3年3月の第4号で終了となっている。
その後は、学生関連の記事は京都府立医科大学新聞へ、文芸関係は、双丘、雪まつり、赫土などに受け継がれた。