京都府立医科大学雑誌 京都府立医科大学雑誌

京都府立医科大学雑誌の歴史

このページは、京都府立医科大学雑誌第100巻発刊記念として森本武利,ほか(京都府立医科大学第一生理学教室名誉教授)により執筆された京都府立医科大学雑誌第100巻10号(937~952頁)をもとに作成しています。

はじめに

『京都府立医科大学雑誌』は、専門学校から医科大学への昇格に功績のあった学長兼院長兼内科教授、小川瑳五郎が大正15年(1926年)8月に退職して兵庫県立神戸病院の院長に赴任した、このときに本学へ奨学資金を寄附したとあり、この資金を基に大学では、総説・原著・抄録・会報からなる『校友会雑誌』とし純学術誌として発足させた。その後、下記表のとおり、雑誌名を変更し現在にいたる。また、この第1巻第1号は小川前学長の退職記念号となっている。

編集発行人は、発行当初から学術研究会会長の梅原信正教授が昭和18年(1943年)の停年退官まで任にあたっている。その後、昭和18年~36年までを大沢徹翁氏ほかが一時編集兼発行人となっている。昭和36年よりは、学術研究会の理事長に病理学の荒木正哉教授が就任され、編集兼発行者を兼ねられ、解剖学の佐野豊名誉教授に引き継がれ大沢徹翁とともに担当される。

昭和54年11月に森本武利名誉教授を編集長とし編集委員会が結成され、昭和55年第89巻より、現在の表紙に変更された。

また、昭和54年より全ての論文を査読審査されることとなる。この頃、出版経費の財政基盤が不安定であったので京都府立医科大学雑誌のみで独立採算制をとるようになる。しかし、投稿者にとって、非常な経済負担を強いるものであった。そして、この問題は明治20年代に本学を廃校の危機から救ってくださった島村俊一先生により、再び救っていただく結果となった。
それは、未亡人である島村こう氏がお亡くなりになったおり、遺言に島村俊一先生邸跡を処分し、京都府立医科大学精神医学教室に寄附するようにとの1項があった。これを有効に使うため精神医学教室から大学へとの申し出があり、これを嶋村基金として、財団法人京都府医学振興会が発足し、発行人となり現在に至る。

雑誌名の変遷

発行年(西暦) 巻数(通刊) 雑誌名 雑誌名(欧文)
明治30年~明治35年(1897~1902年) (1~26) 校友会雑誌
明治35年~明治36年(1902~1903年) (27~30)
明治36年~大正10年(1903~1921年) (31~90)
大正11年(1922年) (91)
大正11年(1922年) (92)
大正11年(1922年) (92) 学友会雑誌
大正12年(1923年) (93) 京都府立医科大学学友会雑誌
大正12年~大正15年(1923~1926年) (94~103) 京都府立医科大学雑誌
昭和2年~昭和19年(1927~1944年) 1~40(104~271) Mitteilunge aus der Medizinishen Akademie zu Kioto
昭和19年(1944年) 41原著編(272~277) 京都府立医科大学論文集
昭和19年~昭和25年(1944~1950年) 41抄録編~47(3号)br>(272~306) 京都府立医科大学雑誌
昭和25年~昭和41年(1950~1966年) 47(4号)~75br>(307~498) Journal of Kyoto Prefectural Medical University

Journal of Kyoto Prefectural University of Medicine
昭和42年~昭和63年(1967~1988年) 76~97(3号)
(499~753)
昭和63年~ 97(4号)~現在(754~)

京都療病院医学校~京都府立医科大学までのあゆみ

明治4年(1871年)京都療病院創立事務所が創設され、明治5年(1872年)京都療病院が開かれた。
明治14年(1881年)には、京都府医学校となり、明治29年(1896年)には京都府医学校校友会が発足し、京都府医学校校友会雑誌が発行される。

明治34年(1901年)に京都府立医学校となり、明治36年(1903年)に京都府立医学専門学校となり、大正10年(1921年)に京都府立医科大学となって、京都府立医科大学雑誌の時代となる。